2024年08月18日
わが家の終戦記念日
<我が家の終戦記念日> 2024.08.18.
我が家も含め、回りの人も、親から戦争の話は聞いたことがないのが普通らしい。
よほど思い出したくもない、ことなんだろうと推定する。
父はカメラが好きで、若いころからのアルバムが、何冊もある。
アルバムから、ヒントを得られないかと思い、開いてみた。
見事に、昭和20年(1945年)のところだけ、何も張られていない。
生活が大変で、それどころじゃなかったのだろう。
父は、計器工場に勤めていた。
戦争末期から、武器を作るようになっていた。
だから、兵隊には行っていない。
それが負い目で、話したくなかったのか?
大田区下丸子にあった工場も、御殿場など、あちこちにに引っ越したとは、亡くなってから、親戚に聞いた話。
母と私と、弟は、父の実家福島に疎開した。
田んぼ作業もできない母が、いじめられたのと、私が病弱で、良い医者がいなかった為、東京へ戻った。
ところが、世田谷区奥沢の家が、空襲で焼かれ、品川区荏原にある母の実家に住むことになる。
このころは、うっかり写真を撮ると、スパイとして摘発されたのだろう。
似顔絵は、アルバムを探す時に見つかったもの。
実に、私に似ているのだ。
な
我が家も含め、回りの人も、親から戦争の話は聞いたことがないのが普通らしい。
よほど思い出したくもない、ことなんだろうと推定する。
父はカメラが好きで、若いころからのアルバムが、何冊もある。
アルバムから、ヒントを得られないかと思い、開いてみた。
見事に、昭和20年(1945年)のところだけ、何も張られていない。
生活が大変で、それどころじゃなかったのだろう。
父は、計器工場に勤めていた。
戦争末期から、武器を作るようになっていた。
だから、兵隊には行っていない。
それが負い目で、話したくなかったのか?
大田区下丸子にあった工場も、御殿場など、あちこちにに引っ越したとは、亡くなってから、親戚に聞いた話。
母と私と、弟は、父の実家福島に疎開した。
田んぼ作業もできない母が、いじめられたのと、私が病弱で、良い医者がいなかった為、東京へ戻った。
ところが、世田谷区奥沢の家が、空襲で焼かれ、品川区荏原にある母の実家に住むことになる。
このころは、うっかり写真を撮ると、スパイとして摘発されたのだろう。
似顔絵は、アルバムを探す時に見つかったもの。
実に、私に似ているのだ。
な
Posted by mayonaka fujita at 15:58│Comments(0)
│◆まよなかのひとりごと